本文へ移動
記憶の断片へ

MEMORY PAGE / EXHIBITION 03

CONCEPT WORK 実在のご依頼ではなく、Mass.の表現思想を伝える制作例です。

娘が初めて
名前を書いた日

父として覚えているのは、書けたことより、
その線を守った、娘の小さな手。

A SPRING MEMORY / CONCEPT 03

01 / THE FIRST TRACE

その線は、
まだ文字になりきっていなかった。

これは、四歳の娘を見ていた、父の記憶です。

春の公園で、娘は紙を一枚ひろげ、赤い鉛筆を強く握っていました。最初の線は右へ傾き、次の線は大きくはみ出しました。

私は反射的に消しゴムへ手を伸ばしました。すると娘は紙を両手で隠し、「けさないで。これ、わたしのなまえ」と言いました。

その声は小さかったけれど、迷いがありませんでした。私は手を止めました。文字を教えているつもりだった私の前で、娘は初めて、自分のものを自分で守っていました。

木漏れ日の下に置かれた、子どもの文字が残る紙と赤い鉛筆
整っていない線ほど、その日の手の動きを覚えている。

02 / A NAME EMERGES

ためらいながら、
名前になっていく。

形の正しさよりも、鉛筆の止まり方、迷い方、もう一度進もうとした力に、娘の意志と、それを見つけた父の驚きが残っています。

  1. ためらう

    紙の上で、鉛筆が一度止まる。

  2. まがる

    思っていた場所とは違う方へ進む。

  3. つながる

    離れていた線が、小さな形をつくる。

  4. 名前になる

    「わたし」と言った瞬間、父の記憶にも刻まれる。

03 / TEN YEARS LATER

なぜ、あの一枚だけを
残していたのか。

十年後、娘は学校の書類へ迷いなく名前を書くようになりました。私はもう、その手元をのぞき込むこともありません。

ある日、引き出しを片づけていると、古い絵本の間から、あの紙が出てきました。赤い線は少し薄れ、折り目には時間が残っていました。

見つけた瞬間に戻ってきたのは、初めて文字が読めた喜びではありません。消そうとした私の手を、娘が初めて止めたときの驚きでした。

名前を書いたのは娘だった。
見守ることを教わったのは、父の私だった。

だから、この瞬間を残したかったのだと思います。あの不揃いな線は、娘が世界へ置いた最初の「これは私です」であり、私が少しずつ手を離すことを覚え始めた日でもありました。

04 / WHAT REMAINS

「直してあげたかった私の手を、
あなたは初めて止めた。」

そのとき感じたのは寂しさではなく、娘の中にもう一人分の意志が育っていたことへの、静かな感動でした。残したかったのは文字ではなく、あなたがあなたになり始めた瞬間です。

05 / AFTERGLOW

あの小さな文字は、
あなたが自分で歩き始めた、最初の足跡だった。

これから何千回、自分の名前を書くようになっても。
あの日、紙を守った小さな手と、
そこに初めて見えたあなたの意志を、父は覚えています。

— 父より —